「サハラに死す――上温湯隆の一生」を読んで
「上温湯にはなるなよ」
のぐちやすお氏の”みかん畑に帰りたかった”を読んだその時に上温湯という人物を初めて知った。のぐち氏の親交の深かった河野兵一氏について書かれた本であり、サハラ砂漠を縦断する河野氏にかけたのぐち氏の言葉だ。
”みかん畑に帰りたかった”を読む限りでは上温湯隆という人物は、サハラをラクダで旅して残念なことにサハラに命を奪われる事になった人らしい。ネットで調べた限りでは”サハラに死す”という本も出ているみたく、読んでみたいと、旅の前に探したりしたが、手に入れることができなかった。それが偶然、成田に向かう前に立ち寄った八王子の知人宅にて読む事ができた。
以下、ネタばれを含む。
彼は高校中退後に海外を50カ国近く周る。70年代は旧ソ連あり、旧ユーゴスラビアあり、植民地も残っており、その中での50カ国は相当な物だろう。イギリス人探検家のサハラ砂漠横断に感化されてモータリニアからスーダンまでのサハラ砂漠横断への挑戦を決意する。
上温湯氏の手記を元に著者が本としてまとめた形になっている。上温湯氏の思想や考え方が至る所で目に付く事ができる。吐き出された弱さが自分とかぶって共感してしまう。終了後は大検を受け、後々は国連関係の仕事につきたい。そんな彼の希望は打ち砕かれる。
一頭目のラクダに死なれ、ナイジェリアのラゴスで旅を中断し、再準備。新たなラクダと共に再開後、そして命を落とす。新たなラクダは彼の傍になく、荷物を積んだラクダに逃げられ、灼熱の太陽と、何も無い砂漠の海の中、絶望に取り残され死んだのだろう。
ラゴスでの旅の総括であれだけラクダ二頭なら旅は成功すると確信していた彼が、なぜ一頭で再挑戦したのかが頭にこびりついて離れない。二頭ならば、一頭目が逃げ出しても、もう一頭居たではないか。二ならば、旅は成功していたかもしれない。なぜ一頭だったのか?金銭的に厳しかったからだろうか?本の中でも資金の工面に奮走する姿が書かれている。
上温湯になりたくない。金銭面の甘さで妥協を強いられたなら、自分はそのような失敗をしたくない。だからあらゆる可能性をかけて動こいてみようと思うようになった。勿論、死にたくも無い。
だが逆にうらやむ部分もある。彼の本が読まれる事で、彼はたくさんの人から想われる。自分が死んだって何にも無いから、彼の死はうらやましく見える。想われた分だけ、生きていた証となるんだから。本を手にする事で、面識の無い他人が彼に触れる事が出来る。
偶然にも上温湯氏が命を落とした年齢に近い自分が、偶然にも知人が持っていて、偶然にも世界一周出発前に読む事が出来た。偶然ではなく必然か?そんな事を考えながら、サハラ砂漠に尽きた彼と彼の夢を思った。
06/08/27
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・周藤 卓也(しゅうとう たくや)
1983年 福岡県生まれ。
150カ国と13万1214.54kmの自転車世界一周を達成。
次なる夢は福岡でゲストハウスの開業。
WEBライターとしてGIGAZINEで連載